「自分って何?」の答えは・・・ ◆ 「ほんとうの自分のつくり方」



榎本博明先生の本をこのブログで紹介するのは、「『嫌われたくない』をどうするか?」「やる気がわいてくるたった1つの方法」に続いてこれが3冊目。

 

今回は非常に中身が濃く、前出の2冊が“スピンオフ”のように思えます。 本を読みなれている人は、この本を選んでいただいたほうが手っ取り早いです。そんなに読まないってかたは、消化不良を起こすかもしれません。なので、榎本さんの本を何冊か目を通してからのほうが、しっくりくるかもです。

 

もちろんメインテーマは「自己物語の心理学」。

 

 

日常私たちが感じる思いの理由を、具体的に解析してくれています。 例えば、高校時代の仲間と集まっているところに、会社の同僚がいるのに気づいたとき、何んとも言えないような気まずさって経験ありますよね?「その原因は・・・」という感じです。

 

 

何度も読み返したくなるような情報量でした。

 

ほんでもって記憶の定着の意味でも備忘録を残しておきます。

 



僕たちは、言葉のために生きていると言ってもよいかもしれない。自分らしさをあらわす言葉、つまり自己定義を守るために生きているようなところがある。

 

 

 

多くの人は、自分がどのような自己物語を生きているのかがつかめないでいる。だから、自分がわからないということになる。

 

 

 

僕たちは、主体的に自分の人生を生きているかのように思い込んでいるけれども、実際には文化的に注入された物語的枠組みを用いて、素材として自己の諸経験を一定の人生の形に綴りあげているのだ。つまり、自己物語というのは、個人が勝手に生み出すものではなく、文化的な基盤をもつものなのである。

 

 

 

自己の探究

「自分とは何か?」といって問い方よりも、「自分はどうありたいか?」という問い方のほうが正しい

 

 

 

自己物語を失った現代人の危険性

このような時代には、自分によくフィットする自己物語を構築する産みの苦しみゆえに、何らかのわかりやすい物語、単純明快に自分の生に意味を感じさせてくれる物語に安易に同一化していく危険も大きい。ナチスが勢いを得たのもそうした物語欠如の時代であったし、わが国でもたとえば学生運動内ゲバが流行ったのが伝統的価値観の揺らいだ時代であった。

 

 

 

僕たちはわかりたいという欲求を強く持っている。

中略

他人なら他人の、自分なら自分の正体を知ることこそが必要になる。

中略

自分は・・・といった答えを見つける。そうすると、自分の日頃の行動の説明がついて、一応はスッキリする。それで損したり、苦しんだりすることはあっても自分の行動に関する説明がついて、自分が何者であるかのヒントが少しでも得られると、それだけで気持ちが落ち着く。損得なしに、わかるということそのこと自体が大切なのだ。

 

 

 

伝統的な価値観や生き方が否定され、破壊された後の世界を生きている僕たちは、どこからか適当な価値観を探し出してきて、自分の物語を築き上げなければならない。

中略

そんな時代だからこそ、多くの人たちは、金儲けや出世への没頭、マイホームなどの物質的追求への没頭、音楽への耽溺、性的耽溺、インターネットの世界への耽溺、新興宗教など思想団体への帰属など、我を忘れさせてくれ、根なしの不安から束の間でも解放してくれる現実逃避の場を求める。

 



語る中で何かが見えてくる。語るということは、まだ意味をもたない解釈以前の経験に対して、語ることのできる意味を与えていくことだ。

 

 

 

何度も何度も語り直す中で、納得のいく適切な文脈が生み出されていく

 

 

 

僕たちが自己を語るとき、自己物語の語り方の多くのバージョンのうちどれを採用するかは、聞き手の反応を見ながら決めているのである

 

 

 

人からよく相談される人というのは、じっくり相手の話に耳を傾けてくれる人であるはずだ。相談者は、答えをすぐに出してほしいのではなく、まずはじっくり話を聞いてほしいのだ。語りたいのだ。相談に行って、親切にもこちらに代わって即座に答えを出してくれる人がいたとして、それは助かったと素直にその回答を採用するほど、僕たちは単純素朴ではない。だいいち、本人がいくら考えてもわからない難問に対して、事情もよくわからない他人からそんなに簡単に答えを出されてはたまらない。

中略

こうしたケースでは、悩みや迷いを話した相手が答えを出してくれたわけではない。相手に事情がわかるように話して聞かせているうちに、これまでとは違った視点からの回答がふと思い浮かんだのである。

 

 

 

語ることによって、無数の可能性の中からひとつの意味が確定する。それによって、形のないモヤモヤした経験に特定の形が与えられる。語ることで経験がすっきり整理されるというのも、モヤモヤしたものに何らかのはっきりした形を与えないかぎり語ることができないからなのだ。

 

 

 

生き方を揺さぶられるような出会いというのは、自分の人生に関してこれまでとは違った振り返り方を可能にしてくれるような出会いのことである

 

 

 

居酒屋で高校時代の友達と一緒に盛り上がっているとき、後ろのテーブルに職場の同僚がいたりしたらどうだろうか。気づいたとたんに、照れというか、ばつの悪さというか、何んとも言えない気まずさを感じざるを得ない。べつに職場のことを話題にしていたわけではなくても、ちょっとした困惑を意識するのがふつうだろう。それはなぜかと言えば、僕たちは相手によって見せている自分が多少ずれているからだ。

 

 



 

いつもと違う相手を前に自己を語ることは、これまで気づかなかった人生の意味に気づくきっかけになったりする。相手とのやりとりの中で、自分が思わず語ったことがらを後で反芻してみて、ハッとすることがある。視点を揺さぶられたことによって、新たな意味に気づかされたのだ。

 

 

 

僕たちの語りは、なんとしても聞き手に承認してもらわなければならない。語り手は、自分の身に降りかかった事実を相手にわかりやすく語っているつもりでありながら、聞き手の反応に合わせて語り直されていく自己物語は、聞き手とのやりとりを通して作り直されていく。

中略

ということは、僕たちの抱える自己物語は、聞き手とのやり取り通して、たえず書き換えられていることになる。つきあう相手によって自分が知らず知らずのうちに変わっていくというのも、こうしたメカニズムによるわけだ。

 

 

 

僕自身、大学時代は理科系だったのに、どうして文科系の心理学に移ったのかと人から聞かれるたびに、返答に窮したものだ。今では、これが絶対に正しいという答えはないと思っているから、そのときどきで適当に答えればよいと居直っている。

中略

思えば、問いかけてくる相手に合わせて、その相手が納得してくれそうな答えを語っていたのではなかったか。ほんとうのところは、結局は自分でもよくわからないのだ。相手に納得してもらえるような説得をしているうちに、何となくそれが正しいような気がしてくる。

 

 

 

僕たちには、自分を首尾一貫した筋道をもっている存在とみなしたがる傾向がある。

中略

それが、自分さがしと言われるものであり、自己物語の探究である。自己物語は、語りの場で探究され、綴られていくのである。

 

 

 

対抗同一性とは、少数派であること、反主流派であることに積極的な価値を置き、自らの正当性や創造性を主張し、多数派や権力体制に厳しく対抗する生き方を身につけていることをさす。

 

 

 

視野が広がるという言い方がなされることがあるが、それは新たな視点を他者から取り入れることで、ものごとをより多角的に見られるようになることをさすものである

 

 

 

自分が嫌になるというのは、いわばこれまで生きてきた自己物語にうんざりしてきたことを意味する。そこでは、自己物語の書き換えが必要となる。

中略

自己物語を今の状況によりフィットしたものへと書き換えていく必要がある。 中略

手っ取り早いのは、語る相手を変えることだ。 価値観が似ているということは、心理学的にいえば、大きな心理的報酬となるのだ。どういう意味で報酬になるかと言えば、まず相手も自分と似たものの見方をするために、自分の考え方や感じ方の妥当性が支持されるということがある。人はだれも自分のものの見方や感じ方が妥当なものかどうかに不安を抱いているので、他人から与えられる支持はとても心強い支えとなる。

中略

お互いに相手の生き方を支持し合うことができるため、そのつきあいは双方にとって報酬となるというわけだ。

 

 

 

 

それでは・・・・。