読み応えのある1冊 ◆ 「なぜ今、仏教なのかの」



著者はロバート・ライト。アメリカ合衆国のジャーナリストで科学作家、進化心理学、歴史、宗教、ゲーム理論などを専門としている方です。

 

なかなか分量の多い本なので、詳しくは書籍を読んでいただきたいのですが、簡単にまとめると、私たちが認識している「自分」なんてものはなくて、いくつもの「意識」がその都度、主導権をとりあっているだけ(※モジュール仮説)なのだという主張です。

 

この考え方を仏教と科学から導き出すって展開で、非常にスリリングな内容でした。

 

確かに、そう考えたほうが“都合がいい”ことが多いような・・・。

 

 

読み応えのある1冊です。

 

「仏教関係者の書く本はどうも難解で・・・」てかたには、この本の説明がすんなり入ってくるかもです。

 

 



快楽がすみやかに消えるように設計されている理由は、つづいて起こる不満によって私たちにさらなる快楽を追求させる追求させるためだ。しょせん、自然選択は私たちが幸せになることを「望んで」はいない。ただ私たちが多産であることを「望んで」いるだけだ。

 

 

 

ブッダが言っていたのは基本的に、「いいかい、あなたのなかに自分の思いどおりにならない部分があって、それがあなたを苦しめるのなら、悪いことはいわないから、それを自分と同一化するのをやめなさい」ということだ

 

 

 

心をまじまじと見れば見るほど、心はたくさんの異なる主体(プレイヤー)からなっているように思えてくる。主体たちは協調することもあるが、コントロールを奪いあうこともあり、ある意味でもっとも強い主体が勝利する。いいかえると、心の中にジャングルがあり、あなたはジャングルの王ではない。よい知らせは、皮肉にも自分が王でないと気づくことが、いくらか実権をにぎるための第一歩になりうることだ。

 

 

 

ダーウィン説から見た自己欺瞞の恩恵

自然選択はなぜ、人間が自分自身について妄想にまどわされても放っておくような脳を設計したのだろう。一つの答えは、自分自身について何かを信じ込んでいれば、それが事実だとほかの人を納得させやすいことだ。矛盾やブレがなく、事態をコントロールできている人物だと周囲を納得させられれば、自分のためにもなるし、もっと正確にいえば狩猟採集民だった先祖の遺伝子のためになったはずだ。

 

 

 

人には自分の動機づけについてのどんな話も自分自身に対して信じさせる能力があり、どんな話だろうと他者に話すことが自分の利益(というより自然選択が定義するその人の「利益」)になる

 

 

 

自分の思考を眺める

「心に浮かぶどんな考えもとなりの人からきていると想像する」ことだとゴールドスタインは言った。

中略

ゴールドスタインによれば、要はそうすれば考えを自分と同一化しないだろうということだ。

 

 

 

モジュール仮説では、感覚はモジュールに一時的な主導権をあたえるものだ 「自己」なるものが存在するかどうかにこだわる必要はない。無我の教義の役に立つ部分、具体的には、私たちのどの感覚もータバコを吸いたい衝動も、スマートフォンを検索したい衝動も、人を憎みたい衝動もー本質的に私たちの一部でないという考えだけを利用すればいい。

 

 

 

CEO自己などないし、「行動する者」や「思考する者」としての自己もいない

 

 

 

新しい見方を学べました。

 

 

 

それでは・・・・。