ご存知、“テーラワーダ仏教アルボムッレ・スマナサーラ長老”の2008年の著作。
「結局は自分のことを何もしらない」タイトルが興味をそそりますよね~。
「どう生きればいいのだろう?」から始まり、その前に「幸せって何?」「私って何?」と掘り下げていきます。
仏教でよく言われる「人生は苦である」がとてもわかりやすく、腹落ちするように書かれています。このあたりは「さすが長老!」(笑)って感じです。
「日本のお坊さんの“説教臭いお話”はどうも・・・」て方にも読みやすい一冊かと思います。
ほんでもって備忘録。
皆がおびえているのは、「死」そのものより、一歩先にある「苦痛」です
お腹が空いている苦しみが嫌だから、食べます。満腹の苦しみが嫌だから、途中で食べるのをやめます。座る苦しみが嫌になると、立ちます。立つ苦しみが嫌になると、座ります。一人でいることが苦しいと思って、結婚します。結婚して子供ができて、うるさくて嫌だと思うと、どこかへ逃げてしまいます。仕事がない人は、仕事がないという苦しみを、仕事を見つけることでまぎらわします。でも、仕事をすれば、それで仕事が苦しいです。
中略
仕事が苦しいと、終わってから夜にたくさんお酒を飲んで、苦しみをまぎらわします。すると今度はお酒を飲んだ苦しみがたまって、朝、なかなか目が覚めません。二日酔いという苦しみを味わいます。こういうことが、人生なのです。苦しみをごまかすことが、人生です。幸福はないのです。
生きることは、苦を回転させて和らげることです
我々が日常、必死で期待する幸福というのは、苦がつくってくれるものです。苦がなければ、俗世間でいう幸福もありません。
つまり、一つの苦しみを別な苦しみで置き換えているあいだ、幸福、楽しみを感じます。その後に感じるのは苦です。
楽しく生きるということは、さまざまな行動を激しく変えて、変えて、動くことです 「幸福だ」と頻繁に言う人々は、会社に月曜日から金曜日まで、ちゃんと仕事に行き、土曜日は誰かと一緒にゴルフに行き、日曜日は、午前中に子供たちと遊んでいて、午後は誰かと一緒に外出し、食事をして、夜はまた別のことをするなどして、一生懸命に動いている人々です
日本では、和菓子を食べて、お茶を飲む、ということをしますね。どうしてお茶を飲むときに和菓子を食べるのでしょうか?それは、お茶だけでは、おいしくないからです。和菓子だけをずっと食べているのでは、おいしく感じません。味覚は瞬間、瞬間、味が変わっていかないと、どういう味かよくわからなくなります。それに、ずっと同じ味だと苦痛になります。そこで、味を変えてそれぞれのおいしさをじっくり楽しむために、お茶と和菓子を交互にとります。
中略
おいしいと感じるのは、見るものと味わうものが次から次へと変わるときです。
楽しみは、複数の「苦」の和え物
「私」をまとめる「私」はいない
「変わらない私」「一定の私」などというものは、どこにもありません。
中略
瞬間、瞬間、変化していますから、ごちゃごちゃで、統一感がなくて、バラバラで当たり前です。
妄想する愚か者は生きることに挑戦しないで、逃げるための理由だけは無限に挙げます
死は法則、病気は自然現象
生きるということは、細胞の中の物質を外に出して、外から物質を中に入れることです。それがずっと一定のスピードで起こるなら、いくらでも長生きできます。しかし問題は、細胞にもエントロピーがあり、中の物質を出すスピードが減ります。外の物質を入れるスピードも減ります。そのうち悪い細胞がたまるし、それを置き換える新しい物質が入るのは、ほんのわずかになって、たちまち細胞は壊れてしまいます。
人生について、新しい捉え方を学びました。
それでは・・・・。