度々、紹介している榎本博明先生の著作。
「何がしたいかわからない・・・」
「もっと充実した日々を送りたい・・・」
「生きてるっていう実感がほしい・・・」
「自分らしい生き方がしたい・・・」etc.
てかたに
第1章
自由な時代の「生きづらさ」と「生き方探し」
第2章
「自分らしい生き方」とは「探す」のでなく「つくる」ものだ
第3章
考えるよりも、まず動いてみよう
第4章
人生の意味づけ方
第5章
悩むことが悪いのではない、悩み方が悪いのだ、前向きに悩もう
以上のような内容で“道”を示してくれています。
この人の説明は本当にしっくりきます。
飛びつきたくなるような“きれいごと”ではなく、それでいて“突き放す”ような文言でもなく・・・。真実に近いような・・・とでも表現したらいいのでしょうか。
ほんでもっていつものように備忘録です。
ちょっとしたひと言が心に刻まれることで、気持ちがフッとラクになることがある。フットワークが軽くなることがある。何かが見えてくることがある。言葉の力を信じて、自分の「生き方」をつくっていこう。
「らしさ」の崩壊
「らしさ」による縛りが緩んだことで、私たちは自分に形を与えてくれるシナリオを失ったのだ
昔の人は、シナリオを与えられていた、それをもとに演じ方を工夫して、良い役者を目指せばよかった。現代人は、シナリオを与えられないため、良い役者である前に、良いシナリオライターを目ざさなければならない。
自分らしい味つけをしてみる。直球に変化球を混ぜてみる。それは基本がこなせるようになってからでいい。
変わることを恐れない、それが自分らしさを手に入れる条件だ
今の仕事が自分に向いているのかどうかわからない。だから何となくやる気になれない。自分に向いているとわかればやる気になれるのに。順序が逆だ。いくら考えても自分の適性など見えてこない。何かに全力でぶつかることで、自分の強みや弱みが見えてくる。それが適正を知るということだ。
映画の意味は、映画自体にあるのではなく、見る側の心が生み出すのだ。日々の生活も同じだ。
何歳になっても意外な自分を発見する。自分はこんなふうにもやっていけるんだとわかったり、自分にも、こんな激しいところがあったんだと驚いたり、こういう生き方は自分にはちょっと合わないと悟ったり、自分で勝手に限界を設けていたことに気づいたり。
私たちは生き始めると、考えることを忘れる
将来は予測できるはず。結果を予測することでより良い選択ができるはず。そうした誤った信念が決断を鈍らせ、行動力を奪う。
中略
やってみなければわからない。そう開き直ることだ。開き直りが推進力となって力強い行動力を生む。
情報検索するよりも、自分の感覚と直感を頼りに動いてみる。情報に頼らずに、思い切って現実に飛び込んでみる。
何をするにも「させられ感」をもつ人がいる。それでは人生は面白くない。
中略
人生を面白くするには、さの「させられ感」を能動的に変えていくことが必要だ。
人生を面白くするには、その「させられ感」を能動的に変えていくことが必要だ。自分の人生の主人公は自分自身だ。人生劇場の脚本家も自分自身だ。自作自演の世界を生きている。それならもっと能動的に動けるはずだ。
人生は偶然によってつくられる。問題はそれをどう生かすかだ。
身に降りかかる出来事が私たちの生きる現実をつくるのではない。私たちの受け止め方のクセが私たちの生きる現実をつくっているのだ。
だれもが過去の影響を受けている。生い立ちの影響を受けない人はいない。
中略
過去のもつ意味は、今ここで自分が決められるのだ。
幸せな人はポジティブ幻想をもつ。人生の成功者はポジティブ幻想をもつ。ものごとを自分に都合よく歪めて知覚する。
自己の探求、それは過去経験に対して納得のいく意味を与えることだ
自己嫌悪を感じたら、「自分は向上心が強いんだ」と思えばいい。気に病むことなく、理想の自己像を追い求めよう。
人間は安楽を求めるものだという考え方がある。だが、安楽の行き着く先は、死にほかならない。
中略
しかし、私たちは安楽だけでは物足りない。生活に張りを求め、刺激を求める。「行きたい」という気持ちは、安楽では満たされない。困難を乗り越えたときの爽快感。大仕事を成し遂げたときの達成感。そこに至るまでの張りのある時間。
現実との軋轢が成長のきっかけとなる。現状の自分のやり方では通用しない。それが現状を乗り越えようとする動きを生む。
中略
現実との軋轢があるからこそ、そこに喜怒哀楽が生じ、味わい深い人生がつくられていく。苦しくなかったら人生じゃない。
劣等感があるから成長できる
いやいや、いつもながら響く言葉の数々。ためになりました。
それでは・・・・。